In the Meantimeインスタレーション|紙、本H3000 × W9000 × D1200mm
私は日常のなかで写真を撮っている。 それは日常を説明したり、整理したりするための行為ではない。 シャッターを切る瞬間、 私と世界のあいだの距離が、 わずかに、しかし確かにズレる。 そのズレのなかで、世界は必要以上の光を帯びて 私の前に立ち現れる。 眩しく、それでいて少し強引で、 目を逸らす前に身体に入り込んでくるような光だ。 意味や事実、物語や感情のようなものは、 その光に飲み込まれ、自然に後景へ退いていく。 写真に残るのは出来事ではない。 その瞬間、世界がどんな重さでこちらに迫ってきたのか、 その関係の痕跡、あるいは感触のようなものだ。 私にとってカメラは、世界と距離を取り、 その過剰さを受け止めるための装置だ。 シャッターを切り終え、カメラを下ろすと、 また私は生活している一人の人間に戻る。 そのとき世界は少しだけ輪郭を失い、平らに見える。 それは決して喪失ではない。 ただ、その煌めきが、 もう同じかたちではこの世界には立ち現れないと 知っているだけだ。 大門太陽
写っているのは、大門太陽が見た日常の断片である。フラッシュで浮かび上がってくるそれらは、友人や乗り物、飲み物、植物、街角の様子など、彼が過ごした昼と夜の光景である。誰しもが目にしたことのあるようなものばかりだが、独特のフレーミングやアングル、光によって、大門の視線に絡み取られ追体験させられる。そして、動画の一場面を切り出したような印象も受ける彼の写真は、“何が写っているか”よりも、“どのような瞬間が写されたか”を考えさせられ、彼の過ごしてきた時間の中に飲み込まれてしまいそうな強度を持っている作品である。 映像学科教授 菅沼比呂志
作者より
私は日常のなかで写真を撮っている。
それは日常を説明したり、整理したりするための行為ではない。
シャッターを切る瞬間、
私と世界のあいだの距離が、
わずかに、しかし確かにズレる。
そのズレのなかで、世界は必要以上の光を帯びて
私の前に立ち現れる。
眩しく、それでいて少し強引で、
目を逸らす前に身体に入り込んでくるような光だ。
意味や事実、物語や感情のようなものは、
その光に飲み込まれ、自然に後景へ退いていく。
写真に残るのは出来事ではない。
その瞬間、世界がどんな重さでこちらに迫ってきたのか、
その関係の痕跡、あるいは感触のようなものだ。
私にとってカメラは、世界と距離を取り、
その過剰さを受け止めるための装置だ。
シャッターを切り終え、カメラを下ろすと、
また私は生活している一人の人間に戻る。
そのとき世界は少しだけ輪郭を失い、平らに見える。
それは決して喪失ではない。
ただ、その煌めきが、
もう同じかたちではこの世界には立ち現れないと
知っているだけだ。
大門太陽
担当教員より
写っているのは、大門太陽が見た日常の断片である。フラッシュで浮かび上がってくるそれらは、友人や乗り物、飲み物、植物、街角の様子など、彼が過ごした昼と夜の光景である。誰しもが目にしたことのあるようなものばかりだが、独特のフレーミングやアングル、光によって、大門の視線に絡み取られ追体験させられる。そして、動画の一場面を切り出したような印象も受ける彼の写真は、“何が写っているか”よりも、“どのような瞬間が写されたか”を考えさせられ、彼の過ごしてきた時間の中に飲み込まれてしまいそうな強度を持っている作品である。
映像学科教授 菅沼比呂志