ツヤ子81歳ドキュメンタリーDocumentary movie | 34min 37sec34分37秒
この作品は81歳になった私のおばあちゃんを一人の女性として掘り下げたドキュメンタリー映画です。 おばあちゃんは大阪に住んでいます。私は両親が共働きだったり母親だけだった時期もあり、赤ちゃんの頃からおばあちゃんにはよく面倒を見てもらっていまいた。大学に進学してから会えるのは大体年に1~2回。気付けばおばあちゃんは80歳を超え途端に“老い”が進み、耳が遠くなったりそれまでしたことのなかった入退院を繰り返していました。離れて暮らすおばあちゃんと大学卒業後地元で暮らす予定がない私にとって、一緒に居られるチャンスは今しかないと思いカメラを持って大阪に帰ることにしました。 撮影期間中、私の提案もあっておばあちゃんは7泊8日の東北旅行に出かけたり山口県にある彼女の生家を訪れたりと、術後でさらに老いの進む体をうんと動かします。しかし気が滅入ると「いつ死んでもええわ」なんて言ってしまったり。老いて思うように動かない体やいつか自分がいなくなるという現実に、おばあちゃんの心はいつも揺れ動きます。そんなツヤ子の過去と日常と非日常。私がツヤ子を知ろうとした約半年の記録。どうぞご覧ください。 中川楓子
映像制作の中でもとりわけドキュメンタリーというジャンルはとても難しいものである。本来映像のクォリティを左右するはずの予算や役者のレベル、脚本の良し悪し、使用する機材の程度、などの点はことごとく無関係のように出来ていくプロセスがこの映画にある。中川氏の映像は実に素直に題材と向き合っている。祖母の年齢への不思議な違和感のようなものを、残された大学生活の時間を使って、過ごしていくうちに見えてくるだろうと期待を膨らませてただただ記録している。作品を通して答えを見つける事を目的としていない。そこにあるのは2018年に起きた祖母と過ごした時間だけ。気付かされるのはドキュメンタリーというのはまるで上から物を言うようなものではないという事。答えが見つかるものでもない。記録映像というものの純粋なる存在価値をこの作品は謙虚に示している。鑑賞後になぜか私たちは清々しく、キュンとしてしまう。それこそがこの映像が導いた価値と言えるのではないだろうか。 基礎デザイン学科教授 菱川勢一
作者より
この作品は81歳になった私のおばあちゃんを一人の女性として掘り下げたドキュメンタリー映画です。
おばあちゃんは大阪に住んでいます。私は両親が共働きだったり母親だけだった時期もあり、赤ちゃんの頃からおばあちゃんにはよく面倒を見てもらっていまいた。大学に進学してから会えるのは大体年に1~2回。気付けばおばあちゃんは80歳を超え途端に“老い”が進み、耳が遠くなったりそれまでしたことのなかった入退院を繰り返していました。離れて暮らすおばあちゃんと大学卒業後地元で暮らす予定がない私にとって、一緒に居られるチャンスは今しかないと思いカメラを持って大阪に帰ることにしました。
撮影期間中、私の提案もあっておばあちゃんは7泊8日の東北旅行に出かけたり山口県にある彼女の生家を訪れたりと、術後でさらに老いの進む体をうんと動かします。しかし気が滅入ると「いつ死んでもええわ」なんて言ってしまったり。老いて思うように動かない体やいつか自分がいなくなるという現実に、おばあちゃんの心はいつも揺れ動きます。そんなツヤ子の過去と日常と非日常。私がツヤ子を知ろうとした約半年の記録。どうぞご覧ください。
中川楓子
担当教員より
映像制作の中でもとりわけドキュメンタリーというジャンルはとても難しいものである。本来映像のクォリティを左右するはずの予算や役者のレベル、脚本の良し悪し、使用する機材の程度、などの点はことごとく無関係のように出来ていくプロセスがこの映画にある。中川氏の映像は実に素直に題材と向き合っている。祖母の年齢への不思議な違和感のようなものを、残された大学生活の時間を使って、過ごしていくうちに見えてくるだろうと期待を膨らませてただただ記録している。作品を通して答えを見つける事を目的としていない。そこにあるのは2018年に起きた祖母と過ごした時間だけ。気付かされるのはドキュメンタリーというのはまるで上から物を言うようなものではないという事。答えが見つかるものでもない。記録映像というものの純粋なる存在価値をこの作品は謙虚に示している。鑑賞後になぜか私たちは清々しく、キュンとしてしまう。それこそがこの映像が導いた価値と言えるのではないだろうか。
基礎デザイン学科教授 菱川勢一