<概要>
2011年3月11日は、大きな節目である。
「3.11」と呼ばれるこの大惨事は、地震による被害だけでなく原子力発電所事故という極めて大きな社会問題を含んでいる。そして6年が経った今現在も、進行形で私たちが直面していること、なのではないだろうか。
私の中にぼんやりとあった社会と個人の関係に対する違和感を出発点として、「3.11」のみならずあらゆる社会問題に目を向けた時の、私たちの「傍観者的」な態度へ陥りがちな風潮について考えてみる。このことは当論文では、社会で起きたことと私たちの間にある「距離」を可視化させる効果を持つのだと考える私なりの「アート」に対する認識を軸に、あらゆる角度からの眼差しを持って論じている。
メディア技術が発達した今、あらゆる場所で起きたことの情報を視覚的に取り入れやすくなったからこそ、「リアル」とは何かという問題は常につきまとう。一見世界は狭くなったように感じるが、実際のところ問題の「当事者」との距離は遠く離れている。
社会に対する葛藤を抱きながら生きて、共有する空気を必死に吸い込んでは吐き出し、どうにかカタチにしようと作品という物質に昇華してきたアーティストがいつの時代にも存在している。
水戸芸術館の『3・11とアーティスト:進行形の記録』展、ワタリウム美術館の『Don’t Follow the Wind 』展などの震災に関する展覧会や作品を見ていると、震災以降、被災地と寄り添い、人々との対話を通した「行為」を伴うアート活動が際立っていた。
このような社会的意識を持ったアーティストの活動を見ると、おのずと被災地とこの場所は地続きなのだと意識せざるを得ない。社会が孕むあらゆる問題の断面を見せられた時、私たちに思考を始めさせる。
対話を求めるアート ―3.11以降に生まれた表現の系譜
Art that demands dialogue: Genealogy of expressions after 3.11
論文|紙、くるみ製本
Essay|Paper, case binding
H210 × W148mm
作者より
アートが社会に果たせる役割とはいったいなんだろう。あの大震災と福島第一原子力発電所の事故という、社会的に大きな衝撃を受けて、アーティストはどう動いたのか。3.11からとうに5年が過ぎた今、再びあの惨事から生まれたアートについて考えてみることが、答えを見つけるひとつの鍵になると私は考えた。作品を媒介して、鑑賞者の身体に「ある感覚」を訴えかける、アートの持つ「効果」について考察する。
西塚沙織
担当教員より
芸術は、社会に、如何に寄与し得るか? それはそのままで、アートは如何なる運動性でもって、あるいは「絶対理解不可能」であるかも知れない他者を「自らの深部」に、新たなダイナミズムの磁場として取り込み、甦えらせることが出来るのか? その構造の秘儀を解き明かすことと、同義ではないか。この今日的命題=「所謂、他者の痛みへの共感」その一点に、論文は、自らの思考を削りながらうねり、練磨し追い込んでゆく。その瞬間に、私どもは「書くこと=エクリチュール」の真の創造的冒険に立ち会うことの、喜びを体験するのではないだろうか。
芸術文化学科教授 新見隆