<概要>
私は今を生きていて、どこか違和感がある。テレビ画面の向こう側と私は同じ世界にいるはずなのに、どこか別の世界のように感じる。画面の向こう側と自分の間にある溝に、何だか居心地が悪くなる。大正時代を生きた作家、村山槐多の作品をみた際、そんな日々積もる現代に対する違和感への答えのヒントが、そこにあるように思えた。
現代と過去の問題の根底にあるものは同じなのではないか。本論では、大正時代の作家の生き方や作品から、当時の人たちがその時をどのように見ていたのか、またどのように感じていたのかを探っていく。第一章では、村山槐多の自画像や小説などの作品、夏目漱石の「私の個人主義」を通して「個」について触れる。第二章では、作家たちが関東大震災に対してどのように反応し、どう捉えていたのかを作品を通してみていく。第三章では、槐多と交流のあった柳瀬正夢の生き方や制作活動から当時の時代の流れを追う。ただ史実を追うだけでなく、その時代に描かれた絵や書かれた文と共に時代を振り返り、現代をどのように受け止めたら良いのか、またどのように生きていくべきなのかを考察した。結果、大正時代の多くの問題は最終的に個に集約しているようだった。ここに、現代への違和感に対する答えのヒントが隠れているのではないだろうか。もし、全ての問題が個に集約するのならば、まず自分に興味を持つべきあろう。自分をしっかり見つめ、自己を中心に、他者、社会へと輪を広げていくことで、世界全体の繋がりがみえてくる。これから先、自ら自分を追い求め続け、個を意識することが現代の不安を解消する一歩となるだろう。
作家、作品からみる大正時代 ―村山槐多をめぐって―
Taisho period seen from writers and works —on Kaita Murayama—
論文|紙、くるみ製本
Essay|Paper, case binding
H210 × W148mm
作者より
大正時代を生きた村山槐多の作品をみた際、現代に対する違和感への答えのヒントを見つけたように感じた。
現代の問題と過去の問題の根底にあるものは同じなのではないか。本論では、大正時代の作家の生き方や作品から、当時の人たちがその時をどのように見ていたのか、またどのように感じていたのかを探る。史実を追うだけでなく、その時代に描かれた絵や書かれた文と共に時代を振り返り、現代をどのように生きていくべきなのかを考察した。
横塚成美
担当教員より
村山槐多の『尿する裸僧』から受けた衝撃を今日の社会に感じることと重ねた。大正時代が抱えていた問題の根底にあるのは今も同じではないか、この問いが論文の出発点になっている。
槐多を中心に据え、同時代を生きた画家や小説家の作品、日記などを縦横に読み解いていった。表象が時を跨いで蘇り現在化されることを明らかにすると同時に、「個」の所在を他者や社会との繋がりから考察した。問題意識が明確で、図版を効果的に用いた構成は読み応えがある。
芸術文化学科名誉教授 今井良朗