<概要>
鏡は世界と非世界の媒介者である。
不安定な両者をつなぎ、かつ、遮るものだ。
毎日鏡を見ていても、本当にそれ自体を見ることができているのだろうか。本論文では、普段見ている鏡の効果ではなく、鏡自体に焦点を当てた。鏡の中に引き込まれるような感覚の原因を探ることを通して、鏡の魅力に迫ろうとする試みである。
鏡像段階に代表されるように、自己同一性と鏡には強い結び付きがある。鏡そのものを見るということは、この結び付きを不安定にすることだ。だから、鏡は私の自己同一性を揺らす。
本論文は、この考えを出発点とし、草間彌生、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャンを通して、鏡について考える構成となっている。それぞれが示すのは、増殖による自他の混乱、反復が生成する表裏を行き来する時間、そして、二世界の境界面としての超次元性。これらすべてが、鏡の尽きることのない魅力につながる。
鏡はその超次元性ゆえに、私が生きるこの世界と、鏡に切り取られた世界との間に、絶対的な距離を作っている。その距離が〈見ないことの不可能性〉となって、私を鏡に夢中にさせるものだ。
鏡の向こうの世界を感じたとき、人は鏡の魅力に取り憑かれ、そこから目を離せなくなる。本論文が読者にとって、「鏡の向こう側」に思いを馳せるきっかけとなれば、幸いである。
鏡の向こう側 −世界と非世界の狭間で
The other side of the mirror -At the boundary between here and there
論文
Thesis
92ページ 39744字
作者より
鏡は世界と非世界の媒介者である。
不安定な両者をつなぎ、かつ、遮るものだ。
本論文は、普段見ている鏡の効果ではなく、鏡自体に焦点を当て、その魅力に迫ろうとする試みである。鏡そのものを見るということによって、私の自己同一性が揺らされる、ということを出発点とし、草間彌生、アンディ・ウォーホル、マルセル・デュシャンを通して、鏡の増殖や反復、二元性などに触れていく。
本論文が読者にとって、「鏡の向こう側」に思いを馳せるきっかけとなれば、幸いである。
中田晴香
担当教員より
「鏡」の魅惑に、とり憑かれた表現者は、多い。そこには、二十世紀前衛の、反-芸術の系譜や、社会と芸術の狭間で葛藤した戦士たちが、かいま見られる。デュシャン、ブランショ、ウォーホル、そして不世出の美術批評家、亡き宮川淳が。論者は、あの宮川の再来を思わせる、透徹した、澄んだ目と文体で、現代社会へ、静かで、しかも激越なメッセージを送る。「自己同一性のゆらぎ」、あるいは、表現の主体の消滅の、その危険と魅惑を。
芸術文化学科教授 新見隆