silver screenインスタレーション|木、膠、水性塗料、アルミ箔H2487 × W6057mm
光と反射の構造に焦点を当てる。 光は直接的に知覚されるのではなく、常に物質や空間との相互作用を通じて立ち現れる。かつての金屏風は、わずかな光をも取り込み反射させるレフレクターの役割があり、そうやって日本人は暗い室内で明るさを補ってきた。 本作では、光が受容され、反射し、さらに拡散していく過程を空間的に組織し、媒介としての光の在り方を検証する。金屏風が微光を増幅し空間を拡張してきたように、またパラボラ構造が波を一点に集束させ再送信するように、ここで扱う光も「受信と送信」を繰り返す動的なプロセスとして捉える。 鑑賞者はその循環の一部に組み込まれ、光を単なる視覚的対象としてだけではなく、構造的かつ生成的な現象として捉える試みである。 榎本伊吹
映画館で、ふいに物語が途切れる瞬間に出会う…。 映写機の不調、フィルムの焼け、あるいは単なる事故。スクリーンが白く発光し、場内にざわめきが生まれる。その数分間、私たちは物語から放り出され、ただ光るスクリーンと向き合うことになる。作品名《silver screen》、そうした誰もが経験し得る、しかしほとんど語られることのない時間を、彼は作品の中心へと据えた。 榎本伊吹は、その「何も映っていないはずの時間」に宿る豊かさを見逃さない。映像が失われた瞬間、スクリーンは背景ではなくなり、発光体として、空間を支配する存在へと変わる。観客は知らず知らずのうちに、物語を読む視線から、光を感じ取る身体へと引き戻される。本作は、その転換点を丁寧にすくい上げ、空間として定着させた作品である。 銀色の金属箔で覆われたスクリーンは、「silver screen」という言葉の由来を静かに物語る。かつて映画が、光と化学反応の技術であった時代の記憶が、ここでは素材として息づいている。同時に、その反射面は、日本の金屏風や障子を思い起こさせる。暗い室内で、わずかな光を受け止め、何倍にもして返すために生まれた工夫。豪華さの奥に潜む、生活の知恵と切実さが、この作品の表面にも重なって見える。 細かな溝が刻まれ、わずかに湾曲した支持体は、光を受け、集め、再び放つ。そこには、パラボラアンテナが遠くの声を拾い、再送信する構造の記憶も重ね合わされている。光はここで、ただ照らすものではなく、行き交うもの、循環するものとして扱われる。スクリーンは終点ではなく、中継点となる。 作品の前に置かれた、使い込まれた映画館のチェアもまた、一つの物語を語っている。そこには無数の観客が座り、笑い、息を詰め、涙をこぼしてきた時間が染み込んでいる。その椅子に腰を下ろした鑑賞者は、いつものように物語を待つ。しかし、待っても何も始まらない。代わりに、光が揺れ、反射が変わり、自分自身の影や気配がスクリーンに混ざり込む。 そのとき鑑賞者は、気づかされる。 映画を見ていたと思っていた時間も、実はずっと、光と向き合っていたのだということに。 《silver screen》は、派手な演出や強い主張を用いない。むしろ、静かで、控えめで、どこか懐かしい。しかしその静けさの中には、映画館という場所、日本の住空間、技術の記憶、そして鑑賞者自身の体験が、幾層にも折り重なっている。物語を語らずして、物語が立ち上がる。その条件そのものを提示している点において、本作は極めて成熟した表現である。 本作は、見る者に「何を見せるか」ではなく、「どのように見てきたのか」を問い返す。スクリーンの前で過ごした無数の時間を、そっと思い出させながら、光という最も原初的な要素へと私たちを導く。その誠実さと深さにおいて、榎本伊吹の《silver screen》を、修了制作の優秀作品として、実に相応しいと心から讃えたい。 日本画学科教授 岩田壮平
作者より
光と反射の構造に焦点を当てる。
光は直接的に知覚されるのではなく、常に物質や空間との相互作用を通じて立ち現れる。かつての金屏風は、わずかな光をも取り込み反射させるレフレクターの役割があり、そうやって日本人は暗い室内で明るさを補ってきた。
本作では、光が受容され、反射し、さらに拡散していく過程を空間的に組織し、媒介としての光の在り方を検証する。金屏風が微光を増幅し空間を拡張してきたように、またパラボラ構造が波を一点に集束させ再送信するように、ここで扱う光も「受信と送信」を繰り返す動的なプロセスとして捉える。
鑑賞者はその循環の一部に組み込まれ、光を単なる視覚的対象としてだけではなく、構造的かつ生成的な現象として捉える試みである。
榎本伊吹
担当教員より
映画館で、ふいに物語が途切れる瞬間に出会う…。
映写機の不調、フィルムの焼け、あるいは単なる事故。スクリーンが白く発光し、場内にざわめきが生まれる。その数分間、私たちは物語から放り出され、ただ光るスクリーンと向き合うことになる。作品名《silver screen》、そうした誰もが経験し得る、しかしほとんど語られることのない時間を、彼は作品の中心へと据えた。
榎本伊吹は、その「何も映っていないはずの時間」に宿る豊かさを見逃さない。映像が失われた瞬間、スクリーンは背景ではなくなり、発光体として、空間を支配する存在へと変わる。観客は知らず知らずのうちに、物語を読む視線から、光を感じ取る身体へと引き戻される。本作は、その転換点を丁寧にすくい上げ、空間として定着させた作品である。
銀色の金属箔で覆われたスクリーンは、「silver screen」という言葉の由来を静かに物語る。かつて映画が、光と化学反応の技術であった時代の記憶が、ここでは素材として息づいている。同時に、その反射面は、日本の金屏風や障子を思い起こさせる。暗い室内で、わずかな光を受け止め、何倍にもして返すために生まれた工夫。豪華さの奥に潜む、生活の知恵と切実さが、この作品の表面にも重なって見える。
細かな溝が刻まれ、わずかに湾曲した支持体は、光を受け、集め、再び放つ。そこには、パラボラアンテナが遠くの声を拾い、再送信する構造の記憶も重ね合わされている。光はここで、ただ照らすものではなく、行き交うもの、循環するものとして扱われる。スクリーンは終点ではなく、中継点となる。
作品の前に置かれた、使い込まれた映画館のチェアもまた、一つの物語を語っている。そこには無数の観客が座り、笑い、息を詰め、涙をこぼしてきた時間が染み込んでいる。その椅子に腰を下ろした鑑賞者は、いつものように物語を待つ。しかし、待っても何も始まらない。代わりに、光が揺れ、反射が変わり、自分自身の影や気配がスクリーンに混ざり込む。
そのとき鑑賞者は、気づかされる。
映画を見ていたと思っていた時間も、実はずっと、光と向き合っていたのだということに。
《silver screen》は、派手な演出や強い主張を用いない。むしろ、静かで、控えめで、どこか懐かしい。しかしその静けさの中には、映画館という場所、日本の住空間、技術の記憶、そして鑑賞者自身の体験が、幾層にも折り重なっている。物語を語らずして、物語が立ち上がる。その条件そのものを提示している点において、本作は極めて成熟した表現である。
本作は、見る者に「何を見せるか」ではなく、「どのように見てきたのか」を問い返す。スクリーンの前で過ごした無数の時間を、そっと思い出させながら、光という最も原初的な要素へと私たちを導く。その誠実さと深さにおいて、榎本伊吹の《silver screen》を、修了制作の優秀作品として、実に相応しいと心から讃えたい。
日本画学科教授 岩田壮平